こんにちは。

今回も『み』、「ミスショットの定義」です。

スィングは状態が上がってくると「ほったらかし」、

となっていきますのでその過程を担う、

「ミスショットは宝」

(失敗をしないことが失敗、のようなオサレ話がここも充当)

であり、むしろこれは不可避です。

が、

「丁寧な人たち」にかぎり、

「ほったらかし」という言葉だけでは概念も説明も

なかなか通用しない、というのが内容でした。

この、「丁寧な人」への通用しなさ加減については確信しています。

仮に鈴木さんと松坂さんによる夢のようなWアンバサダーがあったとして

それをもってしても、

「丁寧な人たち」へは難しいかもしれません。

そしてこの場合、言語化というよりもより対話、が重要といえます。

「動きに集中をする」 <<< 「丁寧な(くらしではなく)人たち」。

少し話がそれますが、最近のyoutubeの定番?としてもよくある

「丁寧なくらし」系の動画、と

それに対する「丁寧にくらせないくらし」系によるツッコミ。

わたくしだけじゃなく、両方ともの世界観、

わかるわかる、という人多いのではないでしょうか。

ぽちぽち書いていておもわず丁寧なくらしが出てきてしまったので

すこしあそんでしまいました。

気を悪くされた方がおられたらすいません。

話をもどしまして。

もしかすると「ミスショット」という言い方からして、

もうすこし細かく言い直された言葉の方がいいのかもしれません。

「ミスショット」とは

単に「あたりがよくない」だけで、

動きとして落ち込むほど悪くない、ということは言えるかとは思います。

(同情ではなく事実として)。

「クラブをつかう」のイメージが出てくれば

目に見えている動きがそこまで変わっているわけではないのに、

格段にスィング効率が上がり、なおかつあきらかにいい飛球になる、

ということと。

「クラブをつかう」の可視化までの間、言語化が大事ですが

一定数おられる「丁寧な人たち」へは、対話がよりいいでしょう。

誰がどう見ても、のような確実な事実の積み上げ、

可能であれば対話形式の論理展開がベスト、です。

まとめです。

ゴルフスィングはだんだんと「ほったらかし」となっていくため

「ミスショットはたからもの」といえます。

が。

とくに「丁寧な人たち」には一方通行の、それだけでは伝わらない、

双方向のコミュニケーションでもある、対話がマスト、というお話でした。

話をよく聞いてくれる丁寧な人たちのお話こそ、

もっともっと聞く価値があるのかもしれません

(もしかするとゴルフスィングの話だけかもしれませんが)。

今回はここまでです。

次回は『む』です。

それでは今回も最後まで読んでくださりありがとうございました。